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パーソナリティー形成における遺伝と環境

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◇遺伝と環境

 人の性格はそれぞれみな異なっているが、その個人差をもたらす原因として、誰もが遺伝と環境の問題をまずとりあげることであろう。

この問題に対する科学的なアプローチとしては, 双生児を用いた研究がある。その中でよく知られているのはゴットシャルト (1939)の研究である。

 彼は前後3回にわたって、双生児たちの合宿を行い、そこでの生活行動を詳細に観察した。 選ばれたのは4歳から18歳までの双生児であり、その中には一卵性の対と二卵性の対の両方が含まれていた。遊びかた、意志傾向、社会的行動、感情、葛藤などについて記録し、 また心理学的な実験も行った。これらの結果を総合し、対となる2人ずつの差の平均を求めた。遺伝と環境の影響力を比べるため、二卵性双生児間の差と一卵性双生児間の差の比を求めた。この比を見比べるとわかるように、根本気分のように遺伝の影響の大きいものから比較的小さいもの までさまざまであることがわかる。

 しかし、このような違いがあるとしても、遺伝だけで決まるものや、環境だけで決まるものは1つも存在せず、いずれも2 つの影響をともに受けていることを見逃してはならない。

 

◇家庭環境の影響

 乳幼児期の育児によって、その後の性格が影響を受けると考えたのはフロイドであった。授乳の方法、排泄の訓練などの経験が問題にされ、たとえば時間を決めて授乳する方法では乳児が孤独感に陥り、神経症的になりやすいという。それに比べ、乳児が欲するときに与える方法では、母親に信頼と愛情を持つようになり、安定した性格ができあがると主張する。

 奥平(1973)は、母乳を授乳された期間と子どもの社会的適応性との関係を調べた。子どもは都市と農村に住む4歳から6歳までの幼児であり、各期間につき20人程度について比較された。社会的適応性がもっとも高かったのは、母乳の授乳期間が6カ月から1年の場合であり、6カ月以下の場合は一様に低かった。 なお、授乳期間が長い場合は乳児が欲するときに与え、排泄のしつけを始める時期も遅いという傾向が認められ、フロイドの主張をほぼ支持するものであった。

 

もりろん、このようにフロイドを支持する研究ばかりではなく、また誰もが気づくように、授乳や排泄のほかにも数多くの養育条件が子どもの性格に影響していることも否定できない。親の養育態度が、全体として子どもの性格にどのような影響を与えているかを検討するには, まず養育態度をいくつかの類型にわけなければならない。この目的で行われた研究としてはサイモンズ (1939)のものがよく知られている。

 サイモンズは、親の養育態度を保護-拒否、支配-服従の 2つの軸で分類し、類型化した。まず、保護的か拒否的かの違いについては、保護的な家庭の子どものほうが拒否的な家庭に比べ、社会的に望ましい行動が多く、情緒的にも安定していた。次に、支配的か服従的かの違いについては、支配的な場合は礼儀正しく、正直であるが、逆の服従的な場合は不従順、攻撃的な傾向があるという。

 

 また、これら2つの軸を組み合わせると、溺愛型、放任型、残酷型、無視型の4つの養育態度に分類することができるという。

 ただこの種のアプローチには限界があることを忘れてはならない。一つには、たとえば親が自らの養育態度を保護的と認めていても、子どもがどのように受けとめているかが明らかではない。子どもが親の養育態度をどのように認知しているかという角度からも検討する必要がある。 また、家庭の中での認知や行動はさまざまな要因の影響を受 けており、養育態度と他の要因の関連性を明らかにしなければならない。たとえば、兄弟姉妹の数や出生順位などによって親の養育態度は違ってくるはずである。結局、家庭の中の複雑な心理的ダイナミックスをとらえる目と方法がなくてはならないのである。

 

◇文化の影響

 

 性格が環境によって変わることは、上に述べた家庭の影響からも明らかであるが,

さらにグローバルにとらえるには文化差に注目する必要がある。 文化と人間の発達との関係について、チャップマン (1988)はその考え方を次のようにまとめている。 普遍主義の立場からは、人間の発達の経路や方向はどのような文化でも同じであるとみなされ、ただ発達の早さやレベルに違いがでるに過ぎないといえる。 それに対して、文化相対主義の立場からは、発達の基盤そのものが文化に規定されており、その経路や方向も文化間で異なることになる。

 チャップマンは第3の立場を主張している。そのチャップマン·モデルによれば、発達の基盤はある程度まで文化の影響を受けながらも、文化間で連続的であるという。そのために発達の起点は同じであっても、その方向は文化によって違うことになるのであり、その意味で普遍主義と文化相対主義の中間に位置づけることができる。

 考えてみると、人間としての性格の基本的な部分は生物学的にも基礎づけられており、住んでいる環境や文化が違っても変わらないのかもしれない。人としての誇りや善意などはどの文化圏の人々にも存在するが、その表れ方や発達の方向には文化による違いが生じるのである。性格はそのような発達をたどるため、文化の異なる国の間で違った形成過程を経ることが予想される。

  

 日本とアメリカの子どもたちについて、その文化差が性格に影響していることを示す調査を次に2つ紹介する。一つはわが国の総理府による調査であり (総理府青少年対策本部, 1981)、どのような子どもがよい子であるかを母親に尋ねたものである。よい子の特性として重要なものを3つあげさせ、その頻数の全調査者に対するパーセントを示した。

 日本では、歯磨きや挨拶などの生活習慣が身についている子、規則を守り、他人に迷惑をかけない子、また辛抱強く、努力する子がよい子とみなされていることが分かるが、この見方は日本的な文化に根ざしたものである。

 他方、アメリカでは独立性のある子やリーダーシップのある子、また異なった意見に対して寛容である子がよい子とみなされており、これは自主、独立を重んずるアメリカ的文化によるものであろう。

 もう一つの調査は、“自分のどういうところを変えたいか" を、小学生に尋ねた調査である。日本では、性格や勉強に関するものが多く、アメリカでは身体的な項目が多い。 これは、日本の社会では、がまん強さや勉強など努力次第で変えることができることでも不満を口にするのに対して、アメリカではそれらは個人の責任なので、外に表現しないという違いを反映しているように思われる。 また、アメリカ日本では、"分からない"が多いのに対して、アメリカでは、“なし” が多いのも、自分の意見を表明することを重視するかどうかの文化的差異の現れではなかろうか。